JOHN MUNG DENIM PROJECT

土佐清水市 × ベルベルジン・藤原裕 × ウエアハウスカンパニー
志国高知幕末維新博、土佐清水市ジョン万次郎資料館リニューアル記念デニム

土佐清水市 × ベルベルジン・藤原裕 × ウエアハウスカンパニー
志国高知幕末維新博、土佐清水市ジョン万次郎資料館リニューアル記念デニム

大政奉還150周年を迎えた2017年より、高知県では「志国高知 幕末維新博」として土佐が生んだ偉人ゆかりの地など、高知県内25の歴史文化施設などで貴重な歴史資料の展示を行っています。明治維新150年を迎える2018年には「博覧会第二幕」として、様々な施設がリニューアルオープンしており、ジョン万次郎ゆかりの施設では高知市にある「坂本龍馬記念館」、そして土佐清水市の「ジョン万次郎資料館」がリニューアルオープンしました。

ジョン万次郎資料館

2018.4.1
リニューアルオープン

ジョン万次郎資料館

John Mung Denim
土佐清水市ジョン万次郎資料館リニューアル記念デニム

土佐清水市の郷土が生んだ偉人「ジョン万次郎」

リニューアルに際し、高知県土佐清水市は、郷土が生んだ偉人「ジョン万次郎」が伝えた「アメリカ」に着目し、「初めてアメリカを伝えた人」「漂流」「ゴールドラッシュ」「デニム」そして「ミシン」というキーワードから、1870年代に「万次郎」がはじめて日本でジーンズを縫い上げたというフィクションのストーリーを史実に基づいて編み上げます。

土佐清水市 × ベルベルジン・藤原裕 × ウエアハウスカンパニー

このデニムプロジェクトにおいて、高知県土佐清水市が依頼した人物はヴィンテージジーンズの案内役として、雑誌、テレビ等に多く出演する「ベルベルジン・藤原裕氏」(高知県出身)。そして藤原氏自らがデニム作りを依頼したのは、早くから19世紀のデニムの歴史を研究し、忠実に再現することで世界的に知られるデニムメーカー「ウエアハウスカンパニー」です。藤原氏がこれまで得た莫大なヴィンテージジーンズの知識と、ウエアハウスカンパニーが持つコンセプト「徹底的なディテールの追及」が融合し、「古いだけではなく現代に穿ける、それでいてクラシックな」デニムを作り上げました。

John Mung Denim 限定120本

Size 28,29,30,31,32,33,34,36,38 / ONEWASH
Price ¥36,000+TAX
ジョン万次郎のイラストを前後にプリントしたオリジナルバラックバックつき

※このジーンズを穿いて、ジョン万次郎資料館(高知県土佐清水市)にご来館いただいた方は、入館料が無料となります。
(ご同伴者も3名迄無料)この特典の無料期間は幕末維新博開催期間の平成31年1月31日までとなります。

ジョン万次郎をオマージュしたフィクションストーリー

「アメリカを伝えた人」ジョン万次郎をオマージュしながら、「デニムタイムトラベラー」となった藤原氏が、その史実にもとづいたフィクションストーリーをご案内します。

初めてアメリカを伝えた人

ジョン万次郎こと中浜万次郎は、文政10年(1827年)1月1日に土佐の中浜、今の高知県土佐清水市中浜で貧しい漁師の次男として生まれました。

9歳の時に父親を亡くし、万次郎は幼い頃から稼ぎに出ており、天保12年(1841年)、14歳だった万次郎は船頭の筆の丞(伝蔵)等、仲間4人と共に漁に出て遭難。数日間漂流した後、太平洋に浮かぶ無人島「鳥島」に漂着します。万次郎達はそこで過酷な無人島生活をおくりました。漂着から143日後、万次郎は仲間と共にアメリカの捕鯨船ジョン・ホーランド号によって助けられます。この出会いが万次郎の人生を大きく変えることとなりました。

救助されたものの当時の日本は鎖国をしており、外国の船は容易に近づくことはできません。それに、帰国できたとしても命の保証はありませんでした。ジョン・ホーランド号の船長ホイットフィールドは、万次郎を除く4人を安全なハワイに降ろし、万次郎はそのまま船に残ることにしました。万次郎を気に入っていたホイットフィールド船長は、アメリカに渡ることを決心した万次郎を快く受け入れます。こうして万次郎はアメリカへと渡ることになり、この時、船名にちなんでジョン・マンという愛称をつけられました。そして万次郎は日本人として初めてアメリカ本土へ足を踏み入れたのです。

アメリカ本土に渡った万次郎はホイットフィールド船長の養子となり、マサチューセッツ州フェアヘーブンで共に暮らしました。学校で、英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学びました。万次郎は首席になるほど熱心に勉学に励んだそうです。卒業後は捕鯨船に乗り、数年の航海を経た後日本に帰国することを決意。帰国資金を得るために万次郎が向かったのは、ゴールドラッシュの起こっていたカリフォルニアでした。金鉱で得た資金で船を購入し、ハワイの漂流仲間のもとへ向かいます。1847年にフロリダ号で日本に帰国することを試みて、八丈島や蝦夷地の近くまで達しながら、帰国することができなかった経験を経ていた伝蔵と五右衛門とともに、日本に向けて出航するのでした。

このフロリダ号で、「伝蔵はアーサー・コックス船長より様々な生活用品や衣料とともに、青デニム3ヤードを75セントで購入した」(宮永孝著『ジョン・マンと呼ばれた男』(集英社1994年)とあります。

嘉永4年(1851年)、薩摩藩領の琉球(現:沖縄県)に万次郎は上陸します。万次郎達は番所で尋問後に薩摩本土に送られ、薩摩藩や長崎奉行所などで長期に渡っての尋問を受けました。そして嘉永6年(1853年)、帰国から約2年後に土佐へ帰郷します。帰国した際に日本語をほとんど忘れていた万次郎は、蘭学の素養がある絵師・河田小龍が立ち会う土佐藩の尋問を受けます。このとき河田小龍によってまとめられたのが「漂巽紀略全4冊」です。漂流から米国などでの生活を経て帰国するまでをまとめており、絵師ならではの挿絵が多くあります。土佐藩主 山内容堂公にも献上され、多くの大名が写本により目にし、2年後河田小龍を尋ねた坂本龍馬や多くの幕末志士たちも目にしたといわれます。

同年の嘉永6年(1853年)、万次郎は幕府に招聘され江戸へ。直参旗本となります。その際、故郷である中浜を姓として授かり、中浜万次郎と名乗るようになりました。この異例の出世の背景には、ペリー来航によりアメリカの情報を必要としていた幕府の事情があったと考えられます。万次郎は翻訳や通訳、造船指揮にと精力的に働き、また藩校の教授にも任命されました。しかし、やがて解任。スパイ疑惑により、ペリーの通訳からも外されてしまいます。しかしながら陰では日米和親条約の締結に向け、尽力していました。万延元年(1860年)万次郎は、日米修好通商条約の批准書交換のために幕府が派遣した海外使節団の一人として、咸臨丸に乗り込むこととなりました。この軍艦・咸臨丸には、艦長の勝海舟や福沢諭吉ら歴史的に重要な人物らも乗っていました。

この際滞在したサンフランシスコのホテルで、当時アメリカで発売され、大人気であった家庭用ミシンの実演販売を目の当たりにします。そこで万次郎はミシンを購入、初めて日本へ持ち帰ったのです。その後、捕鯨活動、教授就任、海外渡航などめまぐるしく動き続けます。

明治3年(1870年)、普仏戦争視察団としてヨーロッパへ派遣されます。ニューヨークに滞在したときに、フェアヘーブンに足を運んだ万次郎は約20年ぶりに恩人であるホイットフィールド船長に再会を果たしました。しかし帰国後、万次郎は病に倒れます。それ以後は静かに暮らすようになりました。

時間的な余裕が出来た万次郎、その頃懐かしいアメリカの地では洋服に「ジーンズ」というものが生まれ、丈夫な作業着として人気が出ていることを知ります。そして、ハワイからの帰国の際、伝蔵らとともに持ち帰った3ヤードのデニムを使い、一台の貴重なミシンでそのジーンズを作ることを試みたのでした。「ああ、思えばゴールドラッシュでは、人々が「黄金熱」に熱狂していたとき、作業ズボンとしてこんな丈夫なパンツがあれば、大事な3ピースを汚すこともなかったのに・・・」当時、ホイットフィールドとの思い出が詰まった大切な3ピースで金を採掘した万次郎は、そう回想したに違いありません・・・

そして明治31年(1898年)、71歳で万次郎はその生涯を終えました。ジョン・マンこと、中浜万次郎が伝えたアメリカが、日本近代化の礎を築いたといっても過言ではありません。

ジョン万次郎について
http://www.johnmung.info/john.htm